<GILLIE>株式会社ギリー
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GILLIE CLUB

ギリークラブメンバー限定企画
『横浜中華街を歩く』
〜赤坂璃宮 橋本氏の案内で中華街を歩く〜


<ご案内>

毎月広東料理を食べている企画が続行中です。会場はご存知の「赤坂璃宮銀座店」、譚彦彬総料理長、袁國星料理長に大変お世話になっていますが、サービスをして頂ける方、もう我々の仲間ですが橋本さんです。

この橋本さんが以前勤務していたのが横浜中華街、じゃあ連れて行ってくれませんか?とわがままを言って実現したのがこの企画です。

中華街の週末は観光客で大混雑ですので、落ち着いて、回るとなると平日しかありません。

橋本さんもお店を抜けて貰っているので、決して無理は言えませんが(もう言ってます!)、このような予定で歩きます。

関帝廟
馬祖廟
中国茶荘
中華街大通り
話題の店も覗きながら、
食材の店、調理器具などの店、菓子屋・・

観光的にはならないように、歩きたいと思います。最後に橋本さんがお勤めだった店で飲茶を食べます。菜香新館という店です。

13:30には解散しますので、あとは自分で回って下さい。

中華街の歴史、サイトから抜粋しましたのでお読みください。(下記にあります)
うーん、そうなのかと、多くの事を学びました。こんな企画をしなかったら知らなかったかもしれません。

もともと広東料理の会は「食から中国を理解する」企画です。中華街の成り立ちを知り、歴史も学び、そして歩く事は、中国と言う国、日本との関係を知る意味でも貴重です。少人数で恐縮ですが、奮ってご参加下さい。

11月には「譚さんと行く香港」も企画中です。

<参考サイト>

●横浜中華街
http://www.chinatown.or.jp/

●菜香新館
http://www.saikoh-shinkan.com/

●赤坂璃宮
http://www.rikyu.jp/

<参考情報>

<横浜中華街今昔>

幕末、1859年に横浜の港が開かれた頃、ここ中華街のあたりは横浜新田と呼ばれていました。現在の南門シルクロード、開港道、長安道はそのあぜ道の名残と言われています。港町横浜には世界各地の人々が訪れ、中国の広東・上海などからも大勢の人がやってきました。広東は華僑の故郷と言われ、古くから海外に人々を送り出した土地です。横浜華僑の多くは広東の出身で、今も中華街に広東料理が多いのはこのためです。 開港当時西洋人は日本語がわからず、日本人は西洋の言葉や商売についてほとんど知識がありませんでした。

一方、香港・広東・上海の西洋商館で働いていた中国人は西洋の言葉が話せ、また日本とは漢字で筆談ができました。そのため中国人が西洋人と日本人のあいだに立ち、生糸や茶の貿易で仲介者の役割を果たしました。また、華僑貿易商は北海道産の鮑、昆布などの海産物を中華料理の材料として香港に輸出したり、砂糖を台湾から輸入したり、貿易港横浜の賑わいを支えました。

華僑が営んだのは貿易や料理店だけではありません。洋館の建築、ペンキ塗装、西洋家具やピアノの製造、欧文印刷、洋裁など、当時の先端分野で華僑は活躍しました。中華街には早くから日本人も暮らしており、相互の行き来の中で新しい技術が日本人に伝えられていったのです。 また横浜には関羽をまつる関帝廟や祖先の霊を慰める地蔵王廟(中国人墓地)が建てられ、清明節・関帝誕・春節などの四季折々の祭事が営まれてきました。 街を練り歩く壮麗な獅子舞や龍舞は横浜名物の一つでもあります。しかし、中華街の歴史は平坦ではありません。関東大震災で街は崩壊し多数の犠牲者を出しました。また日本と中国の戦争の時代もありました。それでもこの街で華僑は生き続けました。戦後の混乱期、人々が温かい食べ物を求めてやってきたのはここ中華街でした。 中華街は華僑の街であるとともに横浜のエネルギーの源でもあります。横浜中華街が歴史と文化を大切にしつつ、誰にでも親しまれる魅力と味のある街であり続けてほしいと願っています。(横浜開港資料館 伊藤泉美)

横浜開港と中華街の形成(1859 〜 1899)
幕末に日本が開国し、横浜の港がひらかれると、アメリカ・イギリス・フランスなど諸外国から大勢の商人が横浜を訪れ、外国人居住地として設けられた「居留地」に商館を開きました。彼らは、横浜進出にあたり、中国人をともなってきました。中国人は漢字によって日本人と筆談できたため、西洋人と日本人の間にたち、生糸や茶などの取り引きの現場で不可欠な存在となりました。

横浜と香港・上海の間に定期航路が開催されると、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷などさまざまな新しい技術を身につけた中国人が横浜を訪れた。また北海道産のアワビやナマコなどの中華食材を香港・上海に輸出したり、台湾産砂糖を日本に輸入する華僑貿易商が現れる。

明治初年には横浜の華僑人口は約1000人となる。彼らは、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地域に徐々に集まり住み、関帝廟、中華会館、劇場などを設け中華街を築いていきました。その後、日中間で日清修好条規が結ばれ、横浜に清国領事館が開設されました。しかし明治27(1894)年日清戦争が勃発すると、横浜華僑もその三分の一が帰国し、厳しい状況がおとずれたのです。日清戦争が終わり再び中華街に活気がもどると、中国の革命家孫文の来日に影響されて、華僑の学校が創設されました。

華僑社会の発展と震災の悲劇(1899 〜 1923)
明治32(1899)年、居留地が撤廃されることとなると、中国人の「内地雑居」を危惧するさまざまな声があがりました。その一つは大勢の中国人労働者の来日で日本人が失業しないかということでした。そうした世論を背景にして、居留地外で仕事をする外国人には理髪・洋裁・料理業など一定の職業制限が設けられ、未熟練労働が規制されたのです。

横浜では居留地撤廃後、旧居留地外で料理店を営む華僑も次第に増え、華僑人口は20世紀初頭には5000人あまりに達しました。また中国人商業会議所や要明公所・三邑公所などの同郷団体も設立され、華僑社会は発展をとげていくのです。 しかし、華僑社会を未曾有の災厄が襲いました。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、中華街は壊滅的な打撃をうけたのです。古いレンガ造りの建物が密集していたため、家屋は倒壊・焼失し、多くの華僑が命を落としました。生き残った人々も神戸・大阪、さらに広東や上海へ避難した。上海の港には大勢の罹災華僑が上陸し、故郷の人々に迎えられて蘇州・寧波に帰っていった。こうして一時は横浜華僑は200人あまりに激減し、さらに震災後、人心が乱れる中で日本人による中国人虐殺という悲劇もおこったのです。

震災復興と戦時下の苦難(1923 〜 1945)
震災で大打撃をうけた中華街でしたが、徐々に人々が戻りはじめ、料理店、雑貨店、理髪店が立ち並んでいきました。また震災で学校が全壊したため、新たに中華公立学校が設立され、広東語での授業が始まりました。そして昭和の初めには華僑人口は3,000人あまりに回復したのです。

しかし平和な時代は続きませんでした。次第に日本と中国との関係が悪化し、昭和12(1937)年7月、日中戦争が勃発しました。この戦争は華僑にとって祖国と居住国が戦火を交えることであり、苦渋に満ちた立場に立たされました。8月に東京在住中国人の帰国がはじまる一方で、横浜に生まれ育ち、この地に生活の基盤をおく多くの華僑はここにとどまりました。

やがて駐日中国大使・横浜総領事など外交団が撤退し、横浜に暮らす華僑の生活は厳しさを増していきました。華僑貿易商は輸入制限や中国での日本製品ボイコットにより大打撃を受けました。また料理店や理髪店でも反中国感情の高まりや華僑の帰国によって客足がとだえていきました。そうした中でも華僑は山下町の戦死者追悼会に代表を送るなど、地元との関係を保つ努力をつづけ、戦時下の日々を耐えたのです。

戦災復興と善隣友好(1945 〜 1955)
1945年5月29日、大空襲で中華街は一面火の海になり、人々は山下公園や山手に逃げました。ホテル・ニューグランドなど山下公園沿いのいくつかのビルを残して一面焼け野原となる。8月15日、終戦とともに復興が始まりました。トタンバラック前の路上で、進駐軍の配給物資の小麦粉、砂糖、油でドーナツを揚げ、それを目当てに人々が集まって行列ができました。華僑は自治組織を作り、対外窓口となり、配給の取りまとめを行うほか、いち早く1946年関帝廟と横浜中華学校を再建し、授業は北京語となりました。後に学校は二つに分かれましたが、両校とも中華街の文化を支える役割を果たしています。

戦後復興期に横浜の港は出船入り舟でにぎわい、香港船員が故郷の中国の食品を持ってきて、日本の椎茸、、干し貝柱、乾燥ナマコ、干しアワビと交換するなどの交易が行われました。また中区は関内を中心に三分の一が接収されていたので、進駐軍や船員相手の外人バーが多くありました。朝鮮戦争終了後、横浜の接収が解除されるにしたがい外人バーが姿を消していきました。1955年中華街復興の願いを込めて、中華街大通りの入り口に「善隣門」が建てられました。牌楼の上には、華僑が「唐人街」、日本人が「南京街」と呼んでいた街の正式名称として「中華街」が「親仁善隣」の四文字とともに揚げられました。

高度成長と中華街のテイクオフ(1955 〜 1978)
中華街とはどのような区域を指すのでしょうか?地理的には中区山下町にあり、中国人が多く暮らし、商住混在のコミュニティーを形成してきた場所を指します。商業的には、1950年、60年代の中華街は善隣門がある大通りを指し、1971年12月から77年までに東西南北の牌楼を建ててからは、その門に通じる各通りを意味し、生活空間と見れば四つの牌楼に囲まれた区域を言います。

山下町には約6,000人の居住者がいて、中国人は約半数の3,000人前後。1910年頃には6,000人を超えた事もありますが、戦後は3,000人台から4,000人台を推移しています。 中華街は日本人と中国人が共生し、中国人が飲食店、日本人が食材を供給するという形で分業しています。1960年代から始まる高度成長と横浜港周辺の経済構造の変容が、中華街に変化と発展を促しました。海岸通りにあった各国の領事館は東京に移り、また商社、倉庫、運輸会社も新たな場所に転出し、その後にマリンタワー(1961年)、港の見える丘公園(1962年)、フランス山公園(1972年)、ホテルなどの観光施設ができ、首都高速道やJR根岸線などの開通と東京オリンピック開催が、中華街、元町に活気をもたらしました。1972年の日中国交正常化による「パンダ、ニーハオ、芽台酒」の中国ブームは、多くの人々を中華街にいざなったのです。

百花繚乱・新たなる挑戦(1978 〜)
中国人が日本に渡来したのは、昔も今も、主に経済的な理由によります。横浜開港から140年経っており、華僑社会は四世か五世になっているのが当然ですが、震災と戦災の影響で、現在壮年期にある人たちはほとんど、その後来日した人の子供たちです。一世から二世へのバトンタッチは70〜80年代に行われました。 一世は、裸一貫で始めた店を家族労働で基礎を固め、次に託す。そして、その店を胃袋が国際化した日本人のお客さんが育てるのです。

日本の中華街が他の国々のチャイナタウンと大きく違う点は、来街者の95%が中国人でないと言う事です。他はちょうどその逆なのです。 1986年元旦、関帝廟が失火するも、街の人々は、思想・信条を超えて協力し、1990年廟の再建を果たしました。1993年中華街にある23の団体が「街づくり」団体連合協議会を結成して、1995年に7つの牌楼を新築し、更に2003年に朝陽門を完成させ、風水思想に基づいた牌楼が出来上がりました。中国風の公衆トイレ「洗手亭」や文化的発信をすべく展示スペース「九龍陳列窓」、中華街の情報発信と交流拠点となる「Chinatown80」を運営しております。2006年に海の守護神をまつる「横濱媽祖廟」が開廟し、中華街の魅力が一層充実してきました。横浜中華街は将来を見据えた街づくりを積極的に取り組んでおります。

<実施概要>

ギリークラブメンバー限定企画
●『横浜中華街を歩く』
〜赤坂璃宮 橋本氏の案内で中華街を歩く〜

●日時:3月24日(水)10:30〜13:30
13:30 集合 中華街散策
12:30 昼食
13:30 終了・解散

●会場 横浜中華街
(詳細はご参加者に連絡します)

●ゲスト:橋本 健太郎氏
広東名菜 赤坂璃宮銀座店 副支配人

●会費: 3,000円+昼食代

●募集人数:申込先着順 5名募集 (正会員のみ)

●締切:3月17日(水)
(それ以前でも満員の際には締め切ることもあります。)
※満員の際、キャンセル待ちは可能です。